「四国遍路」 辰濃和男

小林キユウ著「Route88」(感想)内で、この本を読んで四国遍路に旅立ったという若者の話を読んで、自分でも読んでみたくなった一冊。朝日新聞天声人語も担当していた著者が、齢70前にしてようやく念願(30年前に一度仕事で回っているけど)の歩き遍路への旅に出た記録である。四国4県それぞれに8つの動詞をテーマに掲げて、エッセー風の文章が綴られている。実に淡々とした筆致で、短歌を交えながら綴られていく文章は天声人語的というか、四季折々の歌っぽい。

実は「Route88」の前にもこの人の話は別の本の中で読んでいたんだよね。月岡由紀子著の「平成娘巡礼記 四国八十八ヵ所歩きへんろ」(感想)の中で、三味線と瞽女唄を奉納しながら歩いた月岡さんが、前回、遍路したときに出逢った人としてこの辰濃さんの話を出していたのを、本書の中で月岡さんの記述が出てきて初めて思い出した。

この辰濃さんと月岡さんの遍路紀行は両極にあるものだと思う。辰濃さんは70歳直前、月岡さんは24歳、遍路するにあたっての目的や志しも異なっている。月岡さんの本が、より旅行記らしい形式で、何があったかを中心に記述されているのに対して、本書で辰濃さんは何を感じたかを中心に書かれている。ここらへんは、歳の違いというか、人生をこれから踏みしめ始める人と、自分の死を意識し始めた人との違いなんだろうね。だから、旅の記録が好きな自分は月岡さんの方が楽しかった。やっぱり同年代の人の感じ方の方が共感持てるってのもあるし。ここいらは、読む人の人生経験によって全然感じ方が違ってくるだろう。

辰濃さんの書いたことの意味が分かるのって、実際に歩いてみてからじゃないかと思うんだよね。「解き放つ」「融和する」「ゆだねる」「捨てる」ことの重要性に気づいて行く過程が辰濃さんの遍路行では語られるんだけど、こういうことって頭では重要性は分かっても、はたと膝を打って納得するという「悟り」は読書だけでは得られない。重い荷物を背負い、毎日毎日数十キロの道程をただただ歩き続ける中でようやくその意味が体得できるんじゃないかな。遍路は人生そのもののアナロジーとして語られることも多い。悩みや喜び、体や心のいろんな汚れ、そういう様々な重荷を負ってただただ死に向かって歩き続ける旅路。辰濃さんのこの本ではその旅路の果てに得られた悟りの彼岸が示されている。それを自分のものとして実感できるかどうかは、後は読む人たちの実践にゆだねられているのだろう。

ただ、今の日常生活は、毎日を過ごすのに精一杯で、こういうところまで考え込むにはあまりに慌ただしすぎるのかも知れないけどね。最近は、人生の意味を探したり、自分探しのために遍路にでる人達(特に若い人)が増えているらしいけど、これも現代の日常生活には、そういうことを考えられないようにしてしまう構造が出来上がってるからなのかも。物質的に豊かになればなるほど、精神的には追い詰められてく私たちっていうか…。うーん、ありがちな結論に落としてしまったな。

ともかく、遍路に出た人達の記録をいろいろ読んでみると、日々の喧噪を離れた旅に出て、一番基本的な生き方をしながら自分の足で歩いて見るってのは非常に大きなものがえられるんだなってのだけは実感できるよ。