noblesse oblige その2

こないだ、noblesse oblige について書いたけど、じゃあ、自分にとっての noblesse oblige は何って考えてみた。

貧乏人から巻き上げた金で裕福に暮らしている貴族ではないのはもちろんだけど、貧しい国の資源や労働で作られたモノを安い安いと言って消費しているんじゃ、実のところ、同じじゃんって気にもなるよね。自分が高貴って意識してれば、noblesse oblige の言葉の重みも実感するのだろうけど、普通に暮らしてる普通の人って意識だから、そもそもそういう oblige を感じることさえ意識にのぼらない。金持ち国の庶民は中途半端に金持ちな上、想像力も欠如しているらしい。

以前、韓国に行ったとき、足のない人が台車みたいなのに腹ばいになって、ラジカセで音楽を鳴らしながら移動しては、物乞いしている光景にショックを受けたことがある。また、タイに行ったときは、薄汚れた服をまとった母親がその子供らしい少女をダシに使って物乞いをしている光景にショックを受けた。そして、それらよりも一層、ショックだったのは、そういう人たちを当たり前の光景として視界にも入れていない風な地元の人たちの様子だった。

今の日本に生きていると、そういう人たちを目にすることは、ほんとにないよね(もちろん、今の不況期にあっては、ホームレスの人たちが増えているけど、彼らはホームがないだけであって、物乞いしてるわけじゃない)。他人のお情けにすがって生きている外国で見たような人たちは、真っ先に国が助けているはずだと信じていた自分が甘ちゃんだったというだけの話さ。この国では、汚いもの、見た目のよくないものは徹底的に隠される。それも健常者側のエゴイスティックな論理で。しかし、そういう人たちも厳として生きているのだ。想像力の欠如はここでも大きな要因みたいだ。

現実を見なくちゃいけない。隠された部分まで、遠くて見えない部分までも、ひっぺがしても、はるばる出向いて行っても、どれだけショックを受けようとも、そしてたとえ嫌悪感を感じようとも、見なくっちゃいけない。見て、そして知ってあげることから、きっと次の行動が出てくると思うから。

高貴なるものの義務としてではなく、人の精神の高貴さを守るための義務として。