パッチギ

沢尻エリカチマチョゴリ姿に惹かれて(半分嘘)、福岡まで見に行ってきた。
井筒作品は今回が初体験(たぶん)だったんだけど、かなりコミカルにカリカチュアライズされた雰囲気なんだね…ビーバップハイスクール朝高篇というか。まぁ、この作品の場合、底流にあるのが重い、暗いテーマなので、表面だけは、ヤリたい盛りのバカな高校生群像として描いてバランスを取ったんだろうな。自分としては嫌いじゃないけど、もう少しマンガチックなところは少なくしてもよかったかな、とか思った。
まぁ、それはそれとして、映画の中の沢尻エリカキョンジャ役)は、顔の雰囲気も古風というか古くさいというか、昭和40年代的マドンナっぽさがよく表れてて良かった。学校のアイドル的存在としてほんとにいそうなくらいの素朴で清楚な可愛さで。最近、東京でも見かけなくなったウリハッキョ仕様のチマチョゴリ姿も可愛かったし…。

で、表面的にはそんなコミカルな感じだけど、底流のテーマがちょっと表に顔を出すのが、ある少年の葬式のシーン。おそらく東九条の川縁にある彼の家の入り口は、棺桶さえも通らないくらいに狭く、兄貴分だった少年が、泣きながらハンマーで壁を壊して間口を広げる。そして、葬儀を取り仕切る祭官が訴える「日本のガキは何も分かってない」という言葉。住民票もなく、地図にもない0番地で生きざるを得ない人たちの、締念にも似た悲しみを感じた。
もう6年も前、韓国から来た友人を連れて東九条の川縁を歩いたことがある。その頃はもう、公営住宅も整備されていて、この映画の時代と比べるとずいぶんと様子も変わっていた。でも、そうやって整備されはじめたのは、ごく最近になってからだったと、当時聞いた覚えがある。であれば、昭和40年代なんて、行政サービスの全くの埒外で生きなくてはならなかった、死んだ彼のような家がまさに地べたを這うようにして肩を寄せ合っていたのだろう。朝高もあって、そういう朝鮮人部落もある京都の高校生は、本当に何にも見えてなくて、何にも分かってなかったんだろうか?
ただ、自分自身を振り返ってみると、知ってるからと言って何の免罪符にもならないし、自分の心に平穏が訪れるわけでもない。ましてや、間に横たわる過去と現実を知ったからと言って、彼らの(我らの)現状が変わるわけでもない(変えるためのささやかな行動には繋がるけど)。それよりも、何も知らないサッカーファンのW杯共催での盛り上がりや、何も知らないおばちゃんたちのヨン様ブームによって、そのイメージが変化することの方が大きくて、むしろ脱力感すら感じてしまうことが多い。
映画の中では、主人公が川(鴨川?)を渡って対岸のキョンジャのところに行くシーンが象徴的に描かれていたけど、二人の間に横たわる河は決して超えられないと思う。「知る」ということは、あくまで彼我の間の河の存在を、ひいては対岸の相手の存在を知るだけのこと。キョンジャが訊くように、彼は「朝鮮人」にはなれないし、もちろんキョンジャも「日本人」にはなれない。主人公が歌うイムジン河が流れるラジオを持って、キョンジャが葬式の席に飛び込むシーンは十分に感動的だし、主人公は祭官のじいさんの問いに(ある意味)答えた。でも、だからと言って、彼は祭官のじいさんの悲しみには答えられない。
河は越えられない。ただできるのは、どんな河があるかを知って、せめてその上のもやを薄くするように努めるだけ。この映画を見て、改めてそう思った。