フルーツバスケット #24〜#26

こういう結末を迎えるとは…。泥まみれになり、嘔吐する透。体を張って、行くべきところに透を送り出す花ちゃん。大事なときに他人の力に頼らざるを得ないことを悟っている楽羅。これまでの三人の振る舞いとは全然違う姿が余計に心に響く。そして、流れる「セレナーデ」。
ほんと、いろいろと考えさせられることの多い作品だった。今にして思えば、この作品をリアルタイムで見ていなかったというのは本当に大きな損失だったのかも。今年の5月、岡崎律子という人がいなくなって、それをきっかけに買ったフルーツバスケットのCD。その時から(消極的な理由で)「For フルーツバスケット」を着メロにはしていたが、ジャケットの絵柄から作品自体には大して関心も持たなかった。それが最近、なんとなくレンタルで見始めてからは、最後まで来るのは一気だった。
透を始めとしたキャラたちののほほんとした雰囲気も心地よかったし、人物描写や脚本、演出も面白い回が多かった。そして何よりも、繰り返し描かれる、自分が自分であること、自分が自分として生きることが無条件で赦されるのだというテーマ自体が温かかった。その際たるものが最後のエピソードであり、ありのままの醜い自分を見られること、ありのままの他人を見ることの怖さを怖いものとして認めた上で、それでもともに歩いて生きていく結末を透たちは選び取った。
十二支の呪いを、個性や性格といった内面の問題の暗喩として捉えるのは素直だし、そう解釈するのが正当な(優等生的)見方なのかも知れないけど、自分としてはもっと直接的に解釈した場合が気にかかる。もし、自分の身近な人、自分の子供に、何らかの身体的障害、または痴呆や精神的疾患が現れた場合に、自分はその人をありのままに受け入れることができるだろうか。恥ずかしいと思うことなく愛することができるだろうか。
正直言って、分からない。知的障害のある身内を、精神疾患のある知人を、恥ずかしいと思ったり、煩わしいと思ったりしたことがないとは言えないから。きれい事はいくらでも言えるのに、実際に身近な問題となったときに気持ちが理性に従わないのは分かっているから。
嫌悪感から嘔吐した透のように、自分の中の嫌悪感も罪悪感も認めた上で、それでもありのままの相手とともに生きていくのを選びとることが必要なのかも知れない。生まれ変わることはできないけど、変わっていくことはできるのだから。ともに歩いてさえいれば…。でも、これも今は頭で分かっているだけのこと。ほんとに歩いていけるのだろうか。

透の最後のせりふ「お母さん、見ていてくれますか。時には泣きたくなるときもあるけれど、歩いています。みんな、歩いていきます。ここよりももっと遠いところへ。」を聴いて、以前、/.Jで紹介されてたので見て、岡崎律子を思い出して涙したFlash作品「Walking Tour」を思い出した。さらには、特典映像(CDのCM)での岡崎律子の姿と声に、また涙する。あれから、もう半年か…。