「象られた力」 飛浩隆 (ネタばれ)

「デュオ」「呪界のほとり」「夜と泥の」「象られた力」という中短編4編が収められている本書、自分は飛浩隆という作家をこれで初めて知ったわけなのだが、かなり気になる作家の一人になった。あんまり作品は出てないようだけど、「グラン・ヴァカンス」は早速買って読んでみようかと思う。


「デュオ」は異形のピアニストと、「かれ」に魅入られた調律師の対決を描いた作品。vanishing twinを思い出させる多重人格のモチーフと、双子間での共意識場とでもいうべき、テレパシーを超えた共感形態がSF的色合いを与えてはいるが、それよりもサイコスリラーと言った方が雰囲気をよく表している。作品の始まりからして、ある殺人の告白という形態を採っており、姿見えぬ被害者(=邪悪な存在)の影が時折匂わされるあたり、そして、最後のどんでん返し(それほど大きくはないが)なんかはミステリーとしてもかなり良くできているように思う。ただ、自分としてはもっとSF的なストーリーを期待してたので、やや物足りなさを感じた。SF的要素があくまでも舞台設定のためにしか使われていないので。


「呪界のほとり」は一転してコミカルな作品。とぼけた性格の竜を案内役(鍵やコンパス?)として宇宙を縦横に繋ぐ回廊を旅する男が、回廊ネットワークから外れた辺境の惑星に「不時着」し、ただ一人の住人であるとぼけた哲学者のじいさんと出会う。理由の分からない追っ手に狙われ、追い詰められた挙句に、じいさんの発動させた機械で…というストーリー。竜とじいさんに翻弄される主人公のトホホさ(主人公自体、翻弄されることを宿命づけられている設定)が作品の雰囲気を明るく暖かいものにしている。解説によると、シリーズ化の予定だったそうで、確かにいろいろとおもしろい設定、伏線が凝らされている。自分もこれだけで終わってしまうのはもったいないと思うのだが。


「夜と泥の」
数百年前にテラフォーミングを終えた惑星、その熱帯にある湿原ナクーン・デルタでは、毎年夏至の日になると、巨大な存在と湿原自体との戦闘が繰り返される。巨大な存在は、テラフォーミングを司っていた3基の人工衛星から送り込まれる巨大工作機械。湿原自体とは、そこに住まう数多の昆虫、両棲類たちの群体。そして、その群体の中心には、毎年、その日になると蘇ってくる一人の少女の姿がある。今となってはその意義すら曖昧になったテラフォーミングのシーケンスを粛々と続ける巨大工作機械と、自分たちの存在を守るために戦いつづける湿原の生き物たち。生き物たちは今、一人の女神に率いられ、この惑星の神話を紡ぎはじめる…。
この作品は、この戦いのシーンが一番のクライマックスにして最も美しい場面。音、匂い、触感といろんな感覚を刺激する文章はまさに匂いたつほどの芳醇さに満ちている。そして、そのような文章で描かれることでナクーン・デルタの幻想的な戦いが自分の眼前に広がってくるかのような強烈なリアリズムを与えている。

ナクーン・デルタの生態系がどうにかして生きのこり、変異と淘汰のはてに自意識をそなえた知性をうみだすことがもし万一あるとすれば、なあ、われわれは、その日のためにいま神話の種を蒔いているのではないか?その時代の知性は夜ごとジェニファーの夢を見たりはしないだろうか……。(p.225)

意識なきもの同士の本能=プログラムに従った戦いも、片や群体化し、片や複雑なシステムが時間を経ることにより、予定されたシーケンスをただなぞっているだけという以上の意味・物語性を帯びてくる。そんな原初の存在たちが、自ら戴いた女神とともに戦った遠い記憶を神話という形で存在自身の記憶となす、その端緒を今、垣間見ているのだという厳粛な思いをここに感じる。この作品はそうした神話が産み落とされる瞬間があるということを実感させてくれるのだ。
実は本作では、この後、この戦いの真相がやや文明批判的なトーンで明らかにされるのだが、自分としてはその前で止めておいて欲しい気がした。夢を閉ざされたくないという思いでもあり、月の明かりの下で紡ぎはじめられた物語の、白日の下、その糸の腐った様子が曝け出されてしまうことを惜しむ思いでもある。ただ、美醜や物語性を〈視る〉ことが、あくまで意識ある傍観者のみに許されることであるのなら、そこに美化された神話の端緒を視ることすら、未だまだ存在しない〈彼ら〉の神話を汚すことであるという意味なのかも知れないが。
とにかく、この作品は、少女に導かれた昆虫や両棲類たちが機械と戦うというモチーフがものすごく美しいのだが、こうして書いてみると、なんだかナウシカっぽいな…。
本作品に出てくる人工衛星〈セリューズ〉〈カプリシューズ〉〈サンギュリエール〉の出典はおそらくこちら


最後は、表題作「象られた力」
(疲れたので後で書き足す)