ウルルン再会スペシャル

ドイツの平和村の映像はいつ見ても心が揺さぶられる。世界中でいまだに戦争が続いているところがあること、イラクはおろか、アフガニスタンでさえ、本当の意味では戦争がまだ終わっていないことに、その被害者、それも子供たちという姿で思い知らされるから。
イラクアフガニスタンを始めとしてあちこちの戦場で犠牲者となっていった人たちの姿は、テレビの報道でさんざんっぱら見尽くし、そして見慣れてきた。そうして知識としては分かったつもりになっていても、その知識は総称的な、統計的なものでしかないことに改めて気づく。そこに現れる多くの無名の人たちの姿や思い・悲しみは、結果として平均化されて視聴者に伝達される。悲しいことに、無名の平均的被害者像はセンセーショナルでない。
この番組では、戦場となった場所で実際に生き、偶々戦争に遭ってしまった子供たちが、名前を持った確かな一個の人として登場してくる。たとえ短い時間ではあっても、彼らの生活が紹介されて、彼女らの性格も垣間見えてくる。この子たちのそれまでの生と自分の現在がこの瞬間でリンクするのを感じる。そうして子供たちの悲しみ、憤りに対して、自分の生との相似からようやく想像が至るのだろう。自分の感受性、そして想像力は磨耗してきているのだろうか。
戦場の女性や子供たちの写真ばかりを撮っているある戦場カメラマンの言葉を思い出す。彼は、どうして戦争のもっと悲惨なシーンを撮影して見る者の心をさらに揺さぶらないのかという質問に対して、あなたはそういう悲惨なシーンを見ないと戦争の悲惨さを想像できないのかと答えていた。強い刺激に対して人の感受性は慣れてしまう。であれば、センセーショナルなシーンよりも、自分たちの普段の生活とも重なる女性・子供たちの姿を映して、その悲しみを想像させる写真の方が、もっと力を湛えていると言えるのだろう。でも、想像力ですら磨耗してきてるのではないだろうか。
沖縄戦末期、やむなく自分の子供に手をかけなければならなかった人たちがいた。その中の一人が今、自分の体験を語ることで戦争の悲惨さを語り継いでいる。そして、平和について考えようとする若者たちが沖縄に行き、彼にその話を依頼するのだそうだ。それも、彼が子供に手をかけた、まさにその場所での話を。彼への仲介をしている人は、想像力がなさ過ぎると言って憤っていたらしい。再現ドラマを見るかのようにしないと、想像力を働かせることができないのか。でも、この若者たちを笑うことはできないのかも知れない。


話変わって、次回は一般人のウルルン。とうとう、1回限りの地球ジグザグの復活だね。