終戦60年目の夏の靖国

九段の坂から、靖国の森へ

コミケと並ぶ東京の夏の大イベント、終戦記念日靖国神社に行ってきた。
正午までに到着すれば終戦の詔勅玉音放送)が聴けるかもと、それまでに到着するように早めに出かける。水道橋駅で降りてまずは皇居に向かって靖国通りへ。靖国通りを九段の坂に向かうにつれて、行き交う人々の数が増えてきた。また、それとともに、警察官、機動隊の姿、警察車両の数も増えていく。警察にものものしく警護される宗教施設なんて、世の中、数えるほどしかなかろうななどと考えながら、物々しい装甲車両の脇を通り過ぎる。
九段坂を上る頃になると、狭い歩道いっぱいに人が溢れ、なお、九段下の地下鉄の駅から多くの人が吐き出されてくる状態だった。すれ違う人々の世代もばらばらである。やはり、60以上とおぼしき年配の人たちが目立つが、若い世代の親子、それに学生風情の人の姿も多い。年配そうに見える人たちであっても、ここを歩いている人の中で直に実際の戦争体験を記憶している人は数えるほど少ないはず。こういうところで戦後60年目の意味を感じてしまう。


大鳥居に向かう人々
靖国の大鳥居が見えてくると、首相の公式参拝を求める団体や、扶桑社歴史教科書の採択を求める団体の幟り旗も目立ってくる。そして、その脇を、巨大な大鳥居に向かって黙々と歩いていく人の波。一瞬、昨日見た、ビッグサイトの大建造物に向かって黙々と歩いていく人の波を思い出して苦笑する。その大鳥居をくぐると、すぐ脇にはどこかの右翼団体の人々の列。同じ制服を着込んで、英霊に報恩の参拝ということらしい。
終戦記念日靖国神社境内には、このようなコスチュームを身にまとった人々も数多い。一番多くて目立つのは、右翼団体の特攻服的コスチュームなのだが、他にも旧軍上がりの人々のまとう擦り切れた軍服や、どういう団体なのかは分からないが、若い人たちが旧陸軍っぽい軍装をしている例もあった。3年前だったかに来たときは、旧海軍っぽい白い詰襟を着込んだ一群を見かけたのだが、今日はなぜか見かけなかった。
境内に入っても、あいもかわらず、人いきれがすさまじい。昨日のコミケもかくやと思われるくらいに、とにかく人、人、人で溢れている。そんな境内の中心では、参道を締め切る形で特設ステージが設けられ、「終戦60年国民の集い」なるイベントが行われていた。まず、目に飛び込んできたのは、小泉総理の公式参拝を求める平沼前経産相の姿。そして、終戦記念日公式参拝という公約を守らなかった小泉首相を詰難する、あの小野田寛郎氏の姿も。このイベントにはこの後にも、石原都知事民主党の西村議員など、錚々たるお歴々が出席されるらしい。とはいえ、自分には彼らの話を聴く気もなければ、それまで待っている時間もないのだけれど。いまいち首肯できない話の中で、小野田氏が言った「物事には原因があって結果がある。さきほど終戦詔勅は流れたが、どうして開戦の詔勅が流れないのか」という言葉は印象に残った。彼がどういう意図でその言葉を言ったのかはその後の話が聴けなかったので分からないのだが、確かに、開戦の意味を考えないと、終戦・敗戦の意味もきちんと考えられないのではと感じる。これは、左右の区別なく必要なことのはずなのだが。ちなみに、終戦詔書玉音放送の再放送は、この式典の最初でやってしまったらしい。実に惜しかった。

拝殿前の人いきれ
この後、拝殿まで行って、柏手は打たずに参拝してこようかと思ったのだけど、2番目の鳥居をくぐったあたりから、人の波が全く動かなくなってしまった。暑い中、密集する参拝客の中に混じって、このままじりじりと拝殿まで到達するのを待っていたら、これからの予定がすべてつぶれてしまいそうだったので、仕方なしに参拝は諦める。
そして、参拝を諦めたちょうどその頃に、正午の時を迎えた。60年前のこの日には、玉音放送が流れた正午。60年後のこの正午には、武道館で行われている戦没者追悼式典の黙祷に合わせて、黙祷のかけ声がかかる。とともに、それまでひっきりなしに聞こえていた、ごった返す参拝客の声や、右翼団体の歌う海ゆかばの歌声が一斉に止み、この都心、靖国の森に完全なる静寂が降りてきた。一分間の黙祷の間、聞こえてくるのはうるさいくらいの蝉の声。そして、空を飛ぶヘリの音だけ。60年前にも束の間、こういう時間が流れたんだろうかと、なんだか不思議に気持ちになってしまう。そして、一分の後、止まった時が再び流れ始めた。

ひっそり佇む千鳥ヶ淵戦没者墓苑

靖国神社を出ると、次は千鳥ヶ淵に。日本武道館を取り囲む千鳥ヶ淵脇の細い道をしばらく歩いて千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行く。人、人、人でごった返す靖国神社に対して、こちらを訪れる人の数はかなり少ない。
戦没者墓苑の中も、そこに至る小径同様に静まり返っていた。参拝客はそれなりにいるのだが、さきほどの喧噪を見た目には閑散としていると言ってもいいくらいの様子。たとえ、無縁仏、無名戦士の墓と言えども、35万柱の英霊が眠っているはずなのだが(数には兵士以外の遺骨も含まれるらしい)。靖国では人の喧噪にかき消されていた蝉の鳴き声が、ここでは完全な主役となっていた。
納骨所には総理大臣の献花があった。その前でしばしの瞑目。
墓苑の片隅に一際目立つ人の群れが。記者たちが社民党の福島党首を囲んで取材をしていた。記者のすぐ後ろに立って、そのやり取りを聴いてみる。しかしながら、相も変わらぬ社民党の公式見解ばっかりのようだった。「小泉首相公式参拝には政教分離の観点から反対する」「宗教によらない国立追悼施設を」それはその通りなのだが、今の社民党にはそれをやるだけの発言力も、さらには行動力すらもないじゃないかと心の中で一人ごちて、その場を去った。

60年目は何が違ったのか

終戦記念日靖国神社千鳥ヶ淵墓苑に来たのは、2001年に続いて2回目だった。60年目の今日は前回と何が違っていただろうか。
前回2001年はちょうど小泉首相が総理大臣となり、終戦記念日よりも二日早い公式参拝を済ませた直後だった。また、今年と同じく教科書検定が実施され、扶桑社版に対する中国・韓国からの強い抗議があるとともに、結局はほとんど採択なしという結果が分かった頃だった。まだ、拉致問題も存在せず、韓国は金大中政権で対日融和策、アメリカでは9.11もまだ起こっておらず、世界はまだまだ平和な時代だった。そんな中、自分は初めての沖縄旅行から戻り、最後の締めとして初めて終戦記念日靖国神社を体験しようと考えたのだった。
境内の雰囲気は前回も同じようなものだったように思う。右翼団体から、普通の親子連れまでいろんな人が来ている点も。一つ違うと言えば、今回は大きなイベントが開催されていたということ。それまでは一部の団体がほそぼそと署名活動などで進めていた首相の公式参拝靖国神社の公的追悼施設化が声高に語られるようなったということか。また、2001年は教科書問題に絡んで中韓からの圧力が強まっていたが、今年も同じく教科書問題から火がついて2001年以上の反日圧力を経験したせいか、今年は中国からの内政干渉に抗議する声もよく聞こえてきた。
この60年目、何が変わったのだろうか。結局は、近隣の声が大きくなったのと同時に、対抗する日本国内の声も大きくなっただけなのではないだろうか。小泉首相の下で、国内でも国外でも多くの話し合いは膠着している。そうして誰もが自分の思いを声高に叫ぶしかなくなってしまってきているのではないだろうか。
今度の衆議院議員総選挙の投票日は9.11。今を打開できる新しい体制が整うことを期待したいものだ。